ログイン朝、目が覚めた瞬間、まず最初に思い出したのは――昨夜の食事会だった。
布団の中で天井を見上げながら、思わず小さく息を吐く。
(夢じゃないよな)
そう確認するみたいに、昨夜の出来事が、まだ体の奥に残っている気がした。
照宮さんと二人で食事をして、笑って、話して。
そして――土曜日の約束。
思い出すだけで、自然と口元がゆるむ。
ベッドからゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。
冬の朝の光が、薄く白い色をして部屋に差し込んでくる。 冷えた空気が、ガラス越しに感じられた。「……寒」
ぼそっと呟きながら伸びをする。
気分は不思議と軽かった。同じ部屋で、同じ朝を迎えているはずなのに、どこか違う気がした。
朝食をすませ、顔を洗いながら、洗面台の鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、いつも通りの俺だ。寝癖が少し残っていて、眠そうな目をしている。
別にイケ
二人でホテルのレストランの入口に立った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。 扉の向こうには、落ち着いた照明に照らされた空間が広がっている。 テーブルクロスは白く整えられ、グラスが静かに光を反射している。 どこか遠くで流れているピアノの音が、妙に現実感を薄めていた。(まるで映画のセットみたいだ) そう思ったがそうではない。 こういう場所を舞台に映画が作られているだけだ。(……場違いだな) 正直、そう思った。 映画を観たあと、ホテルのレストランで食事というのは、ドラマや漫画ではよくある展開だ。 でもそれは、あくまで「誰かの物語」の中の出来事だと思っていた。 少なくとも――伊原啓人の人生には無縁だと思っていた。 それなのに今、俺はここに立っている。「どうしました?」 隣から声がかかり、はっとして横を見ると、照宮さんが、少し首を傾げてこちらを見ていた。 柔らかな笑顔だが、その瞳にはほんのわずかに心配の色が浮かんでいる。「あ、いえ……」 慌てて言葉を探す。「すみません。ちょっと緊張してしまって」 正直に言うと、照宮さんはくすっと笑った。「ふふ。そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ?」「いや……なんというか」 言いながら、視線をレストランの中へ向ける。「こういう場所って、慣れてなくて」 自分でも情けないと思う。 三十歳にもなって、ホテルのレストランで緊張しているなんて。 でも、こればかりはどうしようもない。 そもそも、女性とこういう場所に来た経験が、ほとんどないのだから。 照宮さんは少しだけ考えるような顔をしてから、ふっと笑った。「でも」「?」「啓人さん、ちゃんとここまで来てるじゃないですか」
朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が落ち着かなかった。 まだカーテンの隙間から差し込む光は弱く、部屋は薄暗い。 時計を見ると、まだ六時前だった。 普段の休日なら、もう少し寝ている時間だが、今日は違う。(……今日だ) 胸の奥で、ゆっくりと心臓が強く鳴る。 照宮さんとのデートの日。 昨日、何度も頭の中でシミュレーションした。 服装も決めたし、映画のチケットも、ホテルディナーも部屋の予約も済ませてある。 それなのに――なぜか落ち着かない。 ベッドから起き上がり、大きく息を吐いた。「……よし」 小さく声に出してみる。 それだけで、少しだけ覚悟が決まる気がした。 軽く朝食を済ませ、顔を洗い、シャワーを浴び、髪を整える。 鏡の前でネクタイを締めるわけではないが、それでも何度も服を確認した。(……変じゃないよな) 鏡の中の自分を見つめる。 どこにでもいそうな男だ。特別かっこいいわけでもない。(今日は、これで行くしかない) 自分に言い聞かせるように頷く。 準備を終え、バッグを手に取った。 そのとき、ふと思い出す。(……あ) 昨日、信先輩にもらったもの。 財布から取り出し、改めてそれを見る。 小さな包み。コンドーム。「……」 思わず、苦笑してしまう。 葬儀のあとに渡されたものとしては、あまりにも場違いだった。 でも信先輩は真面目な顔で言っていた。『お守り代わりだ』 その言葉が頭に浮かぶ。「……お守り、か」 小さく呟く。 まだ、照宮さんとはそういう関係じゃない。 むしろ、今日だってどうなるか
朝、工場の門をくぐった瞬間、空気の重さを感じた。 冬の朝特有の冷たい空気とは、また違う。 どこか張りつめたような、言葉にしにくい重さが、敷地全体に漂っている。 自転車を駐輪場に止めながら、俺は小さく息を吐いた。(……やっぱり、そうだよな) 昨日の通夜。会社の人間の家族が巻き込まれたとなれば、当然こうなる。 いつもならこの時間、工場はそれなりに賑やかだ。 作業服姿の男たちが現場に向かいながら雑談をして、誰かがくだらない冗談を言って、それに誰かが突っ込む。 そんな、ありふれた朝。 でも今日は違う。 みんな、声が小さい。笑い声なんて、ひとつも聞こえない。 誰もが、どこか気まずそうな顔をしている。 何を話していいのか分からない、そんな空気だ。 俺はタイムカードを押しながら、小さく呟いた。「……おはようございます」「おはよう、けいちゃん」 返事をくれる経理のおばちゃんにも、いつもの調子はない。 それ以上、会話は続かなかった。 しばらくして、朝礼の合図のチャイムが鳴る。 普段なら工場長が連絡事項を伝えて、ラジオ体操をして終わるだけの簡単な朝礼だ。 だが今日は違った。月初でもないのに、社長が前に出てきた。 社長の顔は、明らかにいつもと違い、表情が硬い。 しばらくの沈黙のあと、社長はゆっくり口を開いた。「……みんな、もう知っているとは思うが、信の奥さんと娘さんの葬儀が昼からある」 空気が、さらに重くなる。 誰も何も言わず、ただ、全員が黙って社長の言葉を聞いていた。 社長は一度、息を吐く。 少しだけ、言葉を選ぶように間が空く。「仕事の都合もあるから、全員とは言わん」 それから、ゆっくりと俺たちを見回した。「だが、仕事に余裕がある者は、葬儀に参列し
家に帰って、玄関のドアを閉めた。がちゃり、と鍵の音がやけに大きく響く。 部屋の電気をつけると広がるのは、いつもと同じ部屋、同じ景色。 なのに――今日は、どこか違って見えた。「……はぁ」 思わず小さく息が漏れる。 ベッドに腰を下ろし、ぼんやりとテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。画面が点き、ニュース番組が流れ始める。 やっていたのは――やっぱり、あの事件だった。『本日も引き続き、連続自爆テロ事件についてお伝えします――』 落ち着いたアナウンサーの声が部屋に流れる。 画面には、警察車両。規制線。ぼかされた現場の映像。『犯行声明を出した宗教団体について、警察は関係者の事情聴取を進めており――』 宗教団体。犯行声明。犠牲者。そんな言葉が、淡々と並んでいく。 ニュースの中では、ただの情報だ。 でも――(その中に……信先輩の家族も、含まれている) 胸の奥が、重く沈む。テレビの音だけが部屋に流れていた。 俺にとってテロなんて、ニュースの中の出来事だった。 遠い世界の話。どこかの国の出来事みたいに感じていた。 でも――違った。(現実なんだ、これは……) 俺はベッドに仰向けになり、天井を見上げた。 白い天井。何もない、ただの天井。そこに、信先輩の顔が浮かぶ。 通夜の会場で見た、あの顔。 疲れていた。目の下には濃い影ができていて、顔色も悪かった。 それでも――俺に笑って「よかったな」と言ってくれた。 あんな状況なのに。自分の奥さんと娘さんを亡くしたばかりなのに。 胸の奥が、じんと熱くなる。 おもわず、両手で顔を覆った。「……信先輩」 ぽつりと呟き、ゆっくり息を吐いた。(土曜日…
朝、目が覚めた瞬間、まず最初に思い出したのは――昨夜の食事会だった。 布団の中で天井を見上げながら、思わず小さく息を吐く。(夢じゃないよな) そう確認するみたいに、昨夜の出来事が、まだ体の奥に残っている気がした。 照宮さんと二人で食事をして、笑って、話して。 そして――土曜日の約束。 思い出すだけで、自然と口元がゆるむ。 ベッドからゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。 冬の朝の光が、薄く白い色をして部屋に差し込んでくる。 冷えた空気が、ガラス越しに感じられた。「……寒」 ぼそっと呟きながら伸びをする。 気分は不思議と軽かった。 同じ部屋で、同じ朝を迎えているはずなのに、どこか違う気がした。 朝食をすませ、顔を洗いながら、洗面台の鏡を覗き込む。 そこに映っているのは、いつも通りの俺だ。寝癖が少し残っていて、眠そうな目をしている。 別にイケメンでもないし、特別かっこいいわけでもない、工場勤めの、どこにでもいる男。 でも、昨日の俺と、今日の俺。 何かが変わった気がする。 たぶんまた人生が一歩進んだ。そんな気がしているからだ。 歯を磨きながら、昨夜のやり取りを思い出す。 照宮さんは、あっさり言ったが、俺の中では、世界がひっくり返るくらい嬉しかった。(映画デート……って言っていいのかな) いや、まだそこまでじゃないかもしれない。ただ二人で映画を観に行くだけ。 でも、二人で出かけるのは確かだ。それだけで十分すぎるくらい嬉しい。(信先輩にも早く報告したいな) 自然とそんなことを思う。 会社で一番相談に乗ってくれていたのが、信先輩だった。 人生相談なんて大げさなものじゃないけど、いつも笑いながら背中を押してくれた。 だから、報告したい。 うまくいきましたって。 ありがとうございますって。 そう
玄関のドアを閉めた瞬間、ようやく現実に引き戻された気がした。 鍵を回す音が、やけに大きく響く。 靴を脱ぎ、照明のスイッチを入れると、見慣れたワンルームが白々しく浮かび上がった。 生活感はあるが、誰かを迎えることを想定していない部屋。(……帰ってきた、か) 身体は確かに疲れている。 朝から仕事をして、食事の間、緊張し続けて、最後は事件まで起きた。 それなのに、頭だけが妙に冴えていて、休まる気配がない。 部屋着に着替えながら、今日のことが、何度も脳裏に再生される。 照宮さんの笑顔。 俺の銀髪を見て、迷いなく素敵と言ってくれた声。 アニメや映画の話で、自然に距離が縮んでいった感覚。 思い出すたび、口元が勝手に緩む。(……だめだな) こんな浮かれ方をする歳でもないだろうに。 自分で自分を戒めるが、胸の奥に残った温かさは消えてくれなかった。 シャワーを浴び、身体を温める。 湯気の向こうで、頭の中が少しだけ整理されていく。 ベッドに腰を下ろした瞬間、ほとんど反射的にスマホを手に取っていた。 今日一日の報告を、待っている場所。 ここだけは、嘘をつかなくていい。 指先が、ほんの少しだけ震える。 書き込む前に、一度深呼吸をする。 最後に書き込んでから、今までの流れを遡って確認する。 そこにはテロに巻き込まれていないかと、俺を心配するレスがいくつもあった。(……あ) 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。 胸の奥が、じん、と熱を持ち、喉の奥が、わずかに詰まる。 ただの文字だ。 顔も知らない、年齢も職業も分からない連中。 それなのに、俺を心配してると伝わってくるだけで、こんなにも胸にくる。(……ありがとう)